逆恨み

高速道路でそこらじゅうにいる、80〜100キロくらいで右車線を走っている奴ら。
左車線から追い抜いて前に割り込むと、ハイビームを浴びせてきたり、逆に詰め寄りアオってきたり、もっと極端だと、追い抜かれないように並んで加速する奴もいる。


「こっちは法定速度を守ってんだ。道交法を守ってんだ。文句あるか」というつもりだろうが、これは大間違い。
「他車を追い越すとき以外で右車線(追い越し車線)を走る」のは、立派な道交法違反である。
ハイウエイ・パトロールがうようよしている北海道などで、周囲に他の車が居ないのに右車線を流せば、たちまち止められてキップを切られるだろう。


それはともかく、いくら法定速度があるといったって、スムースな交通を実現するためにも、遅い車は努めて左を走らなくてはならない。
何をもって「遅い」とするか。言うまでもなく周りとの比較である。
ところが最初に例を述べた「遅い」車は、バックミラーなんか見ちゃいないのだね。もし見ていれば、自分が渋滞の先頭車で、自分の後ろに延々と迷惑を被っている車の列が続いているのが目に入るはずだから。


そういう奴をわざわざ左車線から抜く目的は、個人的理由があって先を急いでいる場合も時にはあるが、それとは別次元で、周囲への気配りを持って欲しい、そしてもう一つ、改めて自己反省して欲しいからである。
なぜ自分が左から抜かれたのか、その意味を彼自身に考えてもらうことによって。


ところが、逆ギレして上記のような反応を示す奴は、これはもう救いようがない。
近年、教習所の学科では「周囲の車をイラつかせるような運転は避けよ」と必ず教えている。
その理由は「その相手があとあと、その時のイライラが原因で事故を起こす」危険を未全に防ぐためだという。
しかし、抜かれて逆ギレするような奴は、自分が攻撃を受けたという発想しか持てない。
相手が「なぜ」そのような行動に出たのか、理由を考えようとしない。


全体像を俯瞰する
そして
自分を客観的に見つめる
ことができないわけだ。
自分を客観視できない者は「反省」などしないし、できっこない。


「反省」という言葉を、間違ったニュアンスで理解している者が意外に多くて驚く。
これは、誰かに対して行なう行為ではない。
だから当然、利害損得や、好き嫌い・恨みなど個人間の感情から発露するものでもない。
「反省」とは、自分の過去の行動・態度・振る舞いを、自分の内部で検証し、改めるべき点は真摯に認め、その内省を糧にして自らを高めようと努力することである。


例えば、泥酔しておまわりを殴り、豚箱にブチ込まれたとする。
翌日、酒が抜けた後で被害者の警官に謝るのは、「反省」とは別次元の行動だ。
「これからは酒に呑まれないように気を付けよう」「自信を持てないから、もう酒は絶とう」などと己を省みるのが「反省」である。



ところが昨今の連中は、
「よくも留置場なんかにブチ込みやがって」
とか
「こんど町で会ったら覚えてやがれ」
とか、自分の過ちを棚に上げ、逆恨みする。


関わった警官の方はいい迷惑だ。職責として検挙したまでで、利害も感情も関係ないのだから。
あるいは、犯罪の目撃者・通報者にも同様のことが言える。
個人的な動機で110番を回す者などいない。たまたま居合わせた場所に、社会悪が転がっていただけなのだ。


トラブルが起きたら、わずかでも普段と違う事態が起きたら、人間は何をするべきか。
まず、自らの問題点を洗い出して反省する。
次に、自分に何ができるか・何を行なうのが正しいかを考える。
人を責めたって、トラブルの原因を外に求めたって、何も得る物はない。
(自分だけは間違っていない、という発想は、女だけのものである)
自ら悔い改めることで、己を高め、同じ過ちを繰り返さないようになれるのだ。


「人間は、考える葦である」
と言ったのはパスカルだったっけ。あえてこう言い換えたい。


「人間は、反省する葦である」
反省を知らなかったら、人類は未だに猿のままだったはずである。