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 「砂の器」鑑賞。
 探索篇は冗漫に感じたが、解決篇だけで小一時間ながら長くは感じなかった。
 親子の「旅」を、探索篇の方で時おりカットバックしておけば、両篇とも引き締まったと思う。
 その「旅」では、日本の原風景が美しく、また厳しく描かれており、こっちも旅に出たくなってしまった。


 犯行シーンが無いのは失敗。残虐なものを観たいからではない。犯人の葛藤や逡巡、被害者の当惑などをしっかり描いて欲しかった。
 殺さざるを得なくなるまでの犯人の心の動き、殺されると分かった時の被害者の驚きと当惑、死を覚悟した瞬間の心理(愚直な老人だから、最後まで犯人の意図を理解できなかったのか。それとも犯人の立場から事情を理解し、納得して死んでいったのか)を映し出して欲しかった。


 同様に、自分が逮捕されることを犯人が知る前に映画が終わってしまうのも物足りない。
 刑事が犯人に何度もアプローチし、ジワジワと犯人の不安・焦燥(=作品のサスペンスに直結する)を盛り上げるのが常道。あえてそれを外すのが狙いだったのかもしれないけど。


 先日亡くなった水上勉の「飢餓海峡」にそっくりだと感じた人は、発表当時からいたのではなかろうか。
 「砂の器」が昭和35年、「飢餓海峡」が同37年の発表。
 マネとか盗作とかでは無論なく、「その題材は自分ならこう書く」というスタートだったのかも。
 きのう岡部駅で待つ間から電車中、「黄色い部屋は〜」を読んだ。「グリーン家」と「Yの悲劇」の酷似をちょうど読んだあとだったのが奇遇だ。


 おとといは、トリック主の推理小説の是非〜トリック無用論を読んだあとで、夜の2時間ドラマが、血液型判定の錯覚だけに立脚した(その極めて専門的な知識がなければ謎は解けず、その特殊なアイデアを取り除くと推理小説として成り立たなくなる)作品だったので、偶然に驚いたばかり。


 そういえば、こうも述べてある。
「特殊なものを解説したり論評したりするには、まず知識が必要だという、ごく当たり前のことが、しばしばなおざりにされている」
 ある「いわし」を読んでウンザリしたことは前にも書いた。
 1.自分以前の書き込みの内容を理解しない、極端な場合、ちゃんと目を通してすらいない
 2.言葉のニュアンスの違いが判らない
 3.「それ・これ」など指示代名詞の指すものを間違える
ような国語力の無い者が、延々と脱線している「いわし」が少なくない。


 たとえば
「と思われる」
と書いてあったら
1.断定はしていない
けれど
2.何らかの判断基準はある
という二重のニュアンスを含んでいる。


 こういった事は文章を読み下す中で頭の中にイメージされるもので、理屈で考え直したり、あとから人に教わったりするものではない。
 メモを取りながら読むようでは、作者の仕掛けるミスディレクションなど意味を為さなくなる。