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「73光年の妖怪」読了。
数十年に一本の傑作であった。素晴らしい。
フレデリック・ブラウンは短編の名手として認識されることが多いけれど、250ページ強ながら長編でも冴えわたった筆捌きを見せつけている。
「短編の名手こそ小説の名手」だなんて褒めたら、都筑道夫が草葉の陰で小踊りしかねない。
博士が一度だけミドルネームで呼ばれる個所が、校正の見落とし。
「アフルァ・セントーライ」は、「アルファ・ケンタウリ」の間違いかな?
それに脱字が2箇所。
…いかんいかん、つい仕事になってしまう。
まず緊張感が、背骨として作品を貫いている。これはもう、凡百の小説家がマネようったってできない。名人ならでは。
状況説明はごく簡潔に済ませているのに、場面・情景は鮮やかに浮き上がり、読者をスムースにエスコートしてくれる。
そして何より、「知性体」の心理描写の深さ、見事さ。
利己的な理由で乗っ取りを繰り返す、人類全体の敵なのに、気が付いたら感情移入している自分を読者は発見するだろう。
次の標的は誰(何)かとワクワクし、どうやらこいつらしいと見当が付くと、どのように餌食にするか期待に胸を膨らませ、いざ攻撃の段には応援さえしてしまうのだ。
知性体には厳密には自我がないのだけれど、そんな中でも反省・後悔や自嘲に自己憐憫までも表し、読者はクスリと笑ったりニヤリとしたり。
舞台はミルウォーキー郊外のド田舎だけで完結する。なのに空間は無限の広がりを示す。
灰色の猫を尾行する森を例に挙げると、博士の疑惑の高まりと融合して、そこが異世界であるかのような空気を生み出してしまう。
ジャンルに括るなら、「遊星からの物体」テーマで架空の知性体を創造している点ではSFだろうが、小説のタイプはホラーである。
序章を経て博士が登場し、動物・人間の連鎖自殺に疑念を感じてからは、ゆっくり何時間もかけて階段を一段ずつ上がるように、恐怖をジワジワと盛り上げていく。
テレビ修理屋の窓に猫が現れる場面は、ページはほんの僅かだし、本筋に何ら影響を及ぼさない(つまり省いてもストーリーに関係ない)のだが、前半の愁眉と評価したい。
修理屋の境遇が、店の侘しい様子とともに語られ、読者の同情を彼に引き付けたところで卒然と猫が現れる。
この瞬間、ほとんどの読者はこう思うはずだ。
「彼は殺さないでくれ。彼には乗り移らないでくれ」
さもないと、年老いた病気の母親が、貯金も使い果たし天涯孤独で取り残されてしまうのだから。
その後、灰色の猫に乗り移った知性体が博士宅に侵入する。
最初の夜。博士がすんなり眠りに就いてしまった瞬間は、「なんだ、これでは乗っ取られてしまうじゃないか」と狼狽してしまった。他の生物に寄生している間は、新たな乗っ取りができないことを失念していた。
でもこれは、自己弁護が許されるのなら、作者の周到な誘導に乗ってしまったせいだと思う。
博士が連鎖自殺に対する推理を文章にまとめる様子と並行し、猫が侵入して博士を観察するさまをじっくりと描き、博士も猫の存在を漠然と感じながら外出、そこでも疑惑を高める。帰宅すると、外出前に仕掛けたワナに猫の足跡を発見し、博士は侵入を確信する。この瞬間に読者のサスペンスもグッと盛り上がるのだ。
と同時に、緊張を高めた追効果で、乗っ取りシステムの詳細なんか忘れさせてしまうのが作者の狙いだと思う。
その証拠に、眠るまでの1ページあまりに博士の内心の恐怖をいろいろと描写している。
「何が怖いのかわからないが、怖いのだった」
「暗い二階へ寝にゆきたくなかった」
「何か奇妙な理由から、博士は銃を二階に持ってきておけばよかった、と思った」
そして章末
「しかし、結局眠りに沈む。ぐっすりと眠った」
これは、ただ眠りに就いたことを描写するだけにしては、クドすぎではあるまいか。
眠ったがさいご乗っ取られるという読者の知識を土台に、博士の恐怖を積み上げ、章末の一言で読者の緊張を一気に引っ張り上げているのだ。
博士との数日間に及ぶ一対一の知恵比べは、一級の心理サスペンスに仕上がっている。
物言わぬ猫に博士が自分の推論や疑惑を述べていくさまは、傍目には滑稽に映るだろう。だが猫の正体を知っている読者にとっては、濃密な対決シーンとなる。
森の奥で灰色の猫を発見したときの博士のセリフがいい。
「あのとき自分が撫でていたのは、本当はなんだったのだろう?」
ここに恐怖は極限を迎える。
クライマックスの対決は「クージョ」を思い起こさせる、
というより、もしかしたら「クージョ」は本作を下敷きに発案したのではなかろうか。違ってたらごめんなさい、スティーブン・キングさん。
結末は1・2ページいじるだけで、どちらの勝利にもできた。
私見では、実際の結末ではなく逆の勝者の方が、作品は引き締まっただろうと思う。